あなたとわたしは同じようで違う

鍼灸を通じていろいろと感じることや、発見などがあります。

以前仕事をしていた医療機関では様々な症状に苦しんでいる方々が治療として鍼灸を受けにいらしていました。

私は症状によって治療方法を変えてはいましたが、どの人にも必ず同じ場所に一本だけ鍼を刺し、反応を観察していました。

「どうですか?」と尋ねるとその反応はそれぞれ違うものでした。

一本の鍼に対する感受性は人それぞれなのが当たり前です。しかし、一定の割合の人で深く考え込む人がいました。うーん、うーん、となかなか答えられない。

「こういうの初めてだからよくわからない。普通はどう感じるものですか?」など。

わからなきゃわからないでいいのです。

決まった答えはないし、こちらとしてもこんな風に答えてほしい、という思いはない。

自由に何かを思い、答えることが苦手な方が多かった現場でした。

そして全身の力が抜けにくい、リラックスできない、眠れない、具合が悪くなる。そんな感じでした。

 

生きていると様々な困難にぶつかるときがあります。

私自身は生まれた瞬間から難ありな肉体を有していました。

足首が変形した状態で母体から出てきて、先天性内反足という診断名。

全く物心ついてない満一歳の時に外科的手術を行い、痛くもかゆくもない状態ですがアキレス腱を両足とも切断しているそうで、可動域がすこぶる狭く正座はできない、つまさきだちは出来ない、走るのは50メートルを11秒くらい、見るからにちょっとおかしな足の形。大人になっておしゃれなヒールをはくこともできないのはちょっと寂しかったです。

 

パッと見るといたって元気そうな女の子で、うんていやのぼり棒が得意でした。(おかげで上半身の筋肉量は多いと判定されるくらい。もうすこし華奢でありたかった)

 

人と同じようにできないことも多くあり、正座をしないといけない場面で体育座りをしていたら事情を知らない教員に叱られてぶったたかれたこともありました。

そんな状況を小学校低学年くらいまでは自分の中では整理がつかずにいましたが、

 

「よく見るとこんなへんてこな足が随分と頑張ってくれてる。よくよくみたらユニークな形だな。ひざ下だけ棒みたいに細いけど太いよりはいいかも。そうか、私はただ人と形が違うだけ。形は普通でも心がいじわるだったりおかしな人もいる。みんな同じようにしてるけど一人ずつ何かしらあるかもしれないし、全くもって完全体の人なんかいるはずがない。」

 

とか思って根拠のない自己肯定感の強い子供になっていました。

「あなたとわたしは同じようで違う」と。

他人はかわいそうに、つらいでしょう。と言う。こんな体に産んでしまってごめんね、と悲しむ母を見るにつけ、私はそんなかわいそうな人間なのか。と辛くなることはありました。

謎の自己肯定思想はそのつらさを打ち消す防御反応として起きたのだと思います。

 

まあ、その後に新たな肉体的困難を迎え入れ、再び葛藤するわけですがこんな事生きてればいろいろあるだろうと今は思います。

      今となったら些細な事に思えます。

で、話を戻してみて、何が言いたいかというと、自分だけが保有する感覚は誰とも比較はできない、ということだと思うんです。

 

あの本にはこの状態をこんな風に書いてたから私ってこうかもしれない、とか、普通の人はどう思うんだろう、それと比較しないと判断がつかない、みたいな状態はほかの場面でも苦しみを生む発想になりえるということです。

 

自分に自信がない、どうしたらいいかわからない、こうだったらよかったのに。

 

という想いってごく普通なことだと思います。

もちろんそんなこと思わない人もいるかもしれませんが、そこを健全という位置づけにするといつまでたっても辛いままです。

 

じゃあどうしたらいいのか。

 

正直明確な答えはないです。

答えは自分の中にしかないと私は思います。

 

人それぞれの解決法があると思うのです。

 

自分はどうなのか、自分自身は何をどう考えているのか、ということは突き詰めるほうがいいかもしれない。

あとは良い評価をしてくれる人の言葉を全力で信じて自分のものにする((笑))これ本当に大事。

 

結局は誰とも比較しないまっさらな自分を把握することが解決の第一歩かもしれません。

 

リラックス、脱力できない、思考がぐるぐると終わりなくいやなことを考えてしまう、なんかよくわからないけど辛い、そんなときは鍼灸を受けてリセットしに来てください。

 

はじめはよくわからないかもしれませんが何度か続けていくことで必ず発見があると確信しています。

 

誰かのお役に立つならと自分のことを記してみました。

なんか辛くなったりしたときはお灸でゆるっとしませんか。